お金がなければ、心はきれいでいられない

NPOや、いいことをしている、キラキラしている人に時折機会がある。

ところが、私は「いいことしている症候群」に少し疲れてしまっているのか、「キラキラモード」な方々に正直自分が弱っているからエネルギーを飲まれそうになっているのか、

はたまた自分が汚れているのか、わからないけど少々ぐったりしているらしい。

 

毎日毎日、目の前にある仕事を細々とこなし

それでも、私はまあまあ社会的に責任のある仕事(というか自分でイニシアチブのもてる悪くない仕事)をしているように思うのだけど

すごくすばらしいことをしている頭がよくて、まるで少女マンガのヒーロー、ヒロインみたいな人たちに会うと… 

 

「いやいや、あなたたちみたいに、ゆとりがないんだ」

という言葉が出そうになる。

 

国連職員だろうが、政治家だろうが、難民支援だろうが、私が知る限り(統計をとったわけではない、念のため。)みんな「お家柄もいい」のだ。

私だって、おそらく親はあらん限りの教育を与えてくれたし、別にブラック企業に入ったわけでもない、おいしいごはんを食べたいと思ったときにそこそこおいしいものは食べられるし(数寄屋○郎とかは無理だけど)、別に悪い人生ではない。

 

それでも、仕事は毎日しなければお金も生まれないし、心はそこまでゆとりがない。結局、「貧すれば貪す」。だからこそ、心の清い人たちに対して思うのだ。「ああ、あなたたちはお家柄がいいから」、と。

清い心を持つ人たちの多くは、海外のたっかい費用を払わないといけない大学院のマスターを持っている人がたくさんいるが、彼らは会社でそれなりにいい実績を残しているエリートか、大金持ちかのどっちかだ。そして会社でいい実績を残している人の、もともとの大学や高校を調べてみるといい。…たぶん、結構お金のかかる進学校にいっている、と思う。

 

このことは、30年くらい前に東大の教授だった先生も書いていたし、5年くらい前にも同じような議論があった。

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20091013/188159/?rt=nocnt

 

これって、どうなんだろう?

貧乏人は、心も清くあれない、ということなんだろうか? それって本当に悲しいことだ。こんな風に思ってしまう自分も悲しい。結局、私はどこかで自分を被害者だと思っているらしい。寄付をする人たちがすばらしい。それに異論を唱える気持ちはない。

だけど、寄付をするには、お金のゆとりも、心のゆとりも必要なのだ。そのステージが違う人たちに何をいっても、きっと言葉は伝わらないだろう。

 

そう、私が知りたいのは、「この大きな溝を、どうやって伝えるのか」ということなのだ。心のゆとりを今失っている私は、体中にぜい肉をつけているみたい。

お金持ちは、一概にスリムだ。なぜなら、健康な食べ物は高いから。

貧しいと、心も体も清くなれない。このつらいスパイラルを、私は変える側にいたいけど、それにもエネルギーがいる。どうしたらいいのか。

自分の心にくっついた、汚いぜい肉を落としたい。これが今の私が一番やりたいこと、らしい。