休むことに対する罪悪感

会社を10年も勤めてたら、1日2日休むこととかは別になんの罪悪感もなくなった。

じゃあ、一週間は?一カ月は?それとも、週にニ度、三度は…?

 

 女性がこれを認められるのは、「子ども」というキーワードだ。熱を出した、PTAがある、などなど。わたしは結婚してるが、子どもはいない。子どものいる大変さがわからない、という大前提はいやというほどわかっている。

 

しかし、わたしはこの10年ぶっ通しで働いてきた。土日の勤務もあてられることがある。

もしくは、若いほうだという理由で飲み会のセッティングも頼まれる。お子さんがいたら?

 

…免罪符だ。わたしが好きで学校にいってて忙しいのは、個人の事情。でも子どもを作るのは?…個人の事情ではない。国家プロジェクトなのか?そうかもしれない。

 

その人は、子どもがいることで二年キャリアのなかで休み、復帰してからも週に一度はかならず子どもの事情で休む。その上で、10年たったときにもらえる昇給や、休暇もえる。

 

これって、なんだか違和感がないか?

 

働きやすい環境、というのは平等であること。事情は誰にでもあり、それを勘案しながら働くのは大切なことだ。ただし、それは実績主義の場合なら、というただしがきがつくと思う。

 

でも、日本の年功序列システムのまま、年数イコール昇給昇格の場合、休んだ時期もカウントされるシステムなら不平等で、休みの免罪符になるしかなくなる。

 

実際、わたしは子どもができたら堂々と断れるのに、と死にそうに忙しいとき、へばっているとき、頭をよぎってしまう。

 

休むことが悪なのではない。ただ、不平等をなくすシステムとは何か、ということだと思う。外貨がどうだ、というのは働いたことないからわからない。一般論はまったく思いこみも多い。転職したら見えるものもあるのかな。。

 

 

知り合いが増えるたびにほんの少しの

ひとが苦手なのかな。

顔が広くて、わりと社交的だといわれるけど

エネルギーの充電はだんなと二人でのんびりしてるとき、おうちで本読んでるとき。

きれいでいい匂いのするものに囲まれてぼーっとしたい。

 

会社の人たちにどんなふうに見られてるか

気にならないわけじゃないんだよ。

私もまっすぐ、疑わずに生きてたかったけど、そんな環境には恵まれなかった。王道の生き方ができないなかで、見えるものもたくさんあった。だから、自分が生きたいように生きるしかない。

 

今日は、競合の会社の先輩との話が一番ためになった。〇〇さん知ってるよ、とあまりいわない方がいいよ、という言葉。

わたしは、無意識のうちに話してるだろう、思い当たることがたくさんありすぎた。ほんと、情けない。

負け惜しみじゃないんだけど、素直に思うこと

わたしと夫の収入格差は、たぶんすさまじい。

フリーランスで生きる夫と、大手企業の総合職で10年を超えるわたし。夫は、いまのところやりたいことがあるけど、それで実りある爆発的な社会的評価、つまり報酬はない。

 

職場のおじさんたちは、お前が食わせてるんだろ、とか、MBAをとりはじめたわたしを意識高い系の嫁を支える専業主夫とか、いろんなこという。そして、夫は、いちどだけ穀潰しのダンナをもってるとお前が非難されたりしない?

ときいた。

 

でも、わたしはそんなこと心から思ってないのだ。夫がもし高給取りだったら、かいしゃやめちゃえるなー、とか思うことはもちろんある。特にしんどいとき…。

 

でも、10年以上夫と学生時代から過ごしてきて、こんなに一緒にいたいなと思う相手、いなかった。

 

わたしは幸い同年代の女性より経済力のあるほうだったから、お金で困ってたら助けてあげられるね、と素直に思う。それ以上に心を満たしてもらっている。わたしはめちゃくちゃ自由にさせてもらっているし、夫もそうだといいな。

 

飲み会の場で配偶者の悪口いったり、稼がない夫がどーのこーのとか、いろいろSNSとかでつぶやいたりする人がいて。

 

だったらあなたはどうしたいの、と思った。夫の付属品でいいのか?

 

わたしはいまでも朝起きたとき、夜寝る前、夫と考えてることを話す時間がとても大事。そういうひとに、生きてる間にあえるなんて、本当にありがたいこと。でももちろん、ほんのちょっぴり、休みたいときは、お願いしますというだろうな。

 

あなたはあなた

わたしは変りものなのかもしれない。

疎外感として嫌われている、という受け止め方だったティーンエイジャーのときも

どこかザラッとした違いを感じながら過ごしてた大学時代も

おまえはどこにいってもおまえなんだよ、組織に染まらない    と新卒からいままで10年以上過ごした会社の同僚のことばも

 

結局は、わたしはどこにいっても浮いている、ということば以外の何物でもない。

わたしは、誰かといてもそこがムラ社会を形成しようとしてることを敏感に察知すると、少しずつ小さなうんざりが芽生えて

ちょっとずつ距離を取ろうとし始める。

 

それは、わたしが内向的だからなんだろうな。

 

ムラにどっぷり染まることのできない生きづらさはわたしを生涯形作る気がする。

それでもわたしはわたしだから、このまま、自分が心地よいように生きるしかないんだけどね。

たぶん、わたしのこれまでのさまざまな人見知りは、ここからきてたんだろうなあ。

今日は一人になりたい日。

ネット上で話題になった、内向的と内気の違い。わたしは人がいっぱいいるところは本当に疲れる。

 

こういうときは、できるかぎり、その場所からは逃げようと思う。お気に入りのカフェに脱走してね。

メイクの魔法

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女性も、男性も自分のみためが気に入らないと、自己嫌悪になるのではないだろうか。

仕事が忙しくなると、運動ができなくなる。疲れのあまりに睡眠時間を優先したり、時間をお金で買う、つまりタクシーに乗る。

 

そんなことしてると、心と身体がジリジリとやられてくる。

 

ふだん、まともに化粧をしないのだけど、太った自分も嫌いだし、スーツもおかげでまともにきれないし、といやいやづくめだった。

そこで、化粧品を買ってみた。

 

いろいろ買い込んだが、一番のチャレンジはCHANELの口紅である。しかも、赤!

これまでカラーはディオールにしてた。理由はない。

 

普段から三白眼にコンプレックスがあったから、カラコンの縁周りのあるものは入れていた。そこに、エクステンションつけて、せいぜいファンデーションくらい。

 

すべてが時間短縮のためだった。

でも、やっぱりメークするとちょっとテンションあがる。高級化粧品のもつ不思議な魔法があるのだ。

 

チークと口紅とアイシャドー、しめて12000円。百均で買える時代だ。何やってんだ、というところもあるけど、わたしは効能よりもまだまだブランドを買っている未熟者。でもいいのだ、次はスーツを買う。

細身のスーツが身体を細く見せて、また細くする法則を知ってるから。

 

きみはいい子

母親は二十歳を過ぎ、東京に出てきてからわたしに話すようになった。自分がよい母親じゃなかったと。

「ごめんね。あなたが小さかったころ、お母さんはきついことばかりした、本当に申し訳なかった」

 

誰でもちょっとずつその痛みはあるんじゃないだろうか。わたしは優等生だった。小学生のときの小さなテストなら本当に満点を取っていたが、たまに70点とかとってしまう。

そうすると、そのテストを机の奥深くにかくした。テストには番号がふられていて、その次のテストが先に帰ってくることはあまりない。

「今回は、先生が順番変えたんだって」

そういってかくし続けた。机の奥には、くしゃくしゃのテストがずっとうもれている。

 

机を片付けた母親が、ある日とうとう発見して

テーブルの上に3つ、並べて黙ってわたしを待ち受けていた。

 

無言に耐えられず、ごめんなさい、ごめんなさい。ひたすら謝りはじめたわたしに、母親はゆっくり口を開きはじめて詰問する。

 

なぜ怒ってるかわかるの、と。

一度吹き出た母親の怒りはヒステリックになってゆく。小さな嘘をついてしまうこと。人の顔色をうかがってしまうこと。そのすべてに噴出したマグマみたいに怒ってた。

ひたすら謝るわたしに母親は、ますます怒った。とりあえず謝らないで、何が悪いかわかってるの、と。

 

謝ることも許されない。

逃げることもできない。

こどもの性格を決めるのは、たぶんこの状況だと思う。

 

いまも小さなわたしのなかにいるこどもは、時々顔をのぞかせては周りに怒られるんじゃないかと不安そうな顔を見せる。

そして顔色をうかがう自分を嫌う、そんな自分。